グイノ神父の説教

 

B 年

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王であるキリスト



     年間第23主日 B年  202195    グイノ・ジェラール神父

        イザヤ 35,4-7      ヤコブ 2,1-5      マルコ 7,31-37

 4人の福音史家の中でマルコだけが耳が聞こえず舌の回らない人の癒しについて述べています。この話のはっきりした細かい点を通してペトロの思い出を見付け出すことができます。ペトロはこの出来事の証人でしたので、将来自分の弟子であるマルコに伝えようと思っていました。ご存じのようにマルコの福音は、ギリシャ語で書かれています。しかしマルコは、その聖書の中で三回だけアラム語でイエスが言われたことを書き記しました。「『エッファタ(開け)』とイエスがヤイロの娘に命を与えた時に最初に言った『タリタ・クム(起きなさい)』」(参照:マルコ5,41)、そして三回目は十字架上での最後の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」(参照:マルコ15,34)です。

 このアラム語は、マルコの話に何も大切な変化を与えないと思われるでしょう。しかし、この言葉が書かれているお陰で、イエスはユダヤ人の文化を身に付けたままで、当時の人々の生き方を分かち合ったことが分かります。きっとペトロは、中風で苦しんでいたアイネアを癒した時(参照:使徒9,32-35)や、タビタをよみがえらせた時にも(参照:使徒9,36-41)イエスを真似て「タリタ・クム」というアラム語の言葉を利用したでしょう。マルコは出来るだけ正確にイエスの言葉を言われた通りに書き記しました。さらにカトリック教会は、第二バチカン公会議まで洗礼志願者たちの口と耳に塩と唾をかけながら「エッファタ(開け)」という言葉を、洗礼を授ける時によく利用しました。

 イエスは耳が聞こえず舌の回らない人を群衆の中から連れ出すことで、ご自分の目にはこの人の存在が値打ちのあるユーニクな人だということを示しました。また、ご自分の手で彼の口と耳を触り唾によって具体的に示されたご自分の命の息吹を与え、彼を癒す言葉によってイエスは彼の創造主、彼の神であることを啓示しました。そういう訳で、せっかく彼が話せて聞こえるようになったにも関わらず、イエスは彼に誰にも話さないように命令しました。イエスは彼に、先ず神に向かい感謝するように、そして神の言葉を聞くように誘いました。その後、残った人生において彼は話すことや人々が彼に聞かせたいことを聞くことが出来るでしょう。「エッファタ(開け)」という不思議に聞こえるこの言葉は、癒された人の内に神との対話を可能にする裂け目を開いたのです。

 私たちにとって注意深く聞くことは難しいです。今日、三つの朗読を聞きましたが、既に何人かの人はその内容を忘れてしまっています。また私が説教をしている間にも何人かは、他の事に捕らわれているでしょう。神の言葉が私たちを急き立、私たちの内に根を下ろすことができるように何をしたらよいでしょうか。神の言葉に耳を傾けることが難しいなら、お互い同士に耳を傾けることも難しいです。私たちよく経験することですが、ある人々が私たちと出会って質問する理由は、答えを受けるためではなく、自分が言いたいことを私たちに聞かせるためです。ですからイエス私たち一人ひとりに「エッファタ(開け)」というのはとても必要なことです。

 今日の3つの朗読の内容を忘れているのなら、今から簡単にそれを繰り返します。預言者イザヤは「私たちの耳と口を開くことによって神は来て、私たちを救う」と教えました。ヤコブは貧し人々の叫びに耳を傾けることや彼らを傷つける言葉は語らないことを要求しました。イエスは私たちのすべてを開いて、神と親密に対話するように誘っています。ですから聖霊が「タリタ・クム(起きなさい)」、「エッファタ(開け)」と言って、私たちを立ち上がらせ、私たちがまず神に対して、次に出会う人々に対して注意深く耳を傾けることが出来ますように。 アーメン。

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     年間第24主日  B  2021年9月12日   グイノ・ジェラール神父

        イザヤ 50,5-9      ヤコブ 2,14-18      マルコ 8,27-35

 人があらゆる試練を耐え忍ぶことができるように、神はその人の耳を開くと預言者イザヤは教えています。神が私たちの耳を開くということを知ることは大切です。なぜなら聖書全体は“聞くこと”を何回も要求するからです。“聞くこと”こそ、信仰の道です。確かに、信仰は耳から人の心に入ります。聞く能力によって信仰が与えられています。黙示録の本は私たちに次のように忠告します「耳のある者は、“霊”が諸教会に言うことを聞くがよい」(参照 :黙示録2,7)。やはり、信仰は開かれた耳と関係があります。

 旧約聖書を通して、神は何回も同じことを繰り返しました。「今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる」(参照:出エジプト19,5)と。また「今日神の声を聞くなら心を閉じてはならない」(参照:詩篇94,7「教会の祈りの訳」)と。耳を傾けない人は、他の人と人間関係を結ぶことができないと知っている神はずっと注意深く聞くように私たちを招きます。神の命を受けるために、神の言葉を聞いて、それを実行することが大切です。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得る」(参照:ヨハネ5,24)とイエスは断言しました。確かに永遠の命は神の言葉を聴くことによって与えられています。「耳のある者は聞きなさい」(参照:マタイ13,9)。それによって日常生活の試練を乗り越えることができます。

 今日イエスは弟子たちが耳にしたことについて話すように願っています。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。そう言いながら人々が言うことに対して興味を持って耳を傾ける注意深い人となるように、イエスは弟子たちを招きます。そして彼らに自分の心の耳を開いて、よく聞くようにと誘います。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエスは尋ねます。ペトロは待たずに心の叫びを聞かせ「あなたは、メシアです」と言いました。ところが、残念なことにペトロはすぐに心の耳を閉じて、イエスがご自分の受難について啓示したことを聞こうとしませんでした。ペトロはあっという間に、「心を聴く」状態から「自分の理論に耳を傾ける」状態に移ました。ペトロは苦しんで死ぬべきメシアを想像したくなかったからです。そのためにイエスを強く咎め始めました。

 聞きたくない人は人との関係に傷をつくります。ですから他の弟子たちも同じ咎めを出さないようにイエスはすぐ反応します。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。言い換えれば「ペトロ、あなたは間違った声に耳を傾けました。この声にサタンが隠れています。自分の心の声をよく聞きなさい、神の声ですから」と。サタンが分裂の種をまき散らす前に、またペトロが自分を責める前に、イエスはすぐに次の大切なことを教えました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」つまり私の命の言葉に耳を傾けて、自分の意志と幻の考えを捨てなさいと助言したのです。

 こんにち、イエスはそれを私たち一人ひとりに言ています。ですから、人生におけるすべての試練を乗り越えながら、イエスの後に歩み続けるために、また、自分の心の底から昇ってくる神の声を聴き分けるために、父なる神が私たちの耳を開きますように。そのためには、沈黙がどうしても必要です。沈黙は禅が求めている音や騒音の不在ではありません。聖ベネディクトの戒律が教えている通り、心の沈黙は他の人が読神の言葉の朗読を聞くことによって得られるのです(参照:戒律No42)。心の沈黙はダイナミックであり、必ず他の人に注意を向けます。心の沈黙は禅の沈黙と違って自分のためではないので、神を簡単に見つけることが出来るのです。もし聖霊にこの沈黙を願うなら、必ず与えられるでしょう。アーメン。

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       年間第25主日  B年 2021919日   グイノ・ジェラール神父

        知恵の書 2,1217-20     ヤコブ 3,16-4,3    マルコ 9,30-37

 今日、聖ヤコブは祈らなければ何も受けられないこと、そして悪い祈りも何も得ることが出来ないことを教えました。しかし悪い祈りとか、良い祈りとは一体どのような祈りなのでしょうか。ヤコブの話によると、自分の利益や野望を満足させる祈り(参照:フランシスコ訳)、神の前に自慢する祈りは悪い祈りです。このような祈りは、イエスのたとえ話のファリサイ派の人たちの祈りです(参照:ルカ:189-14)。

 自分たちの中で誰が一番偉い人なのかについて知りたかった弟子たちの議論は、自慢と自己満足の祈りに等しいものでした。誰が最も魅力的な者か、誰が最も強い者か、誰が最も賢い者かと言うことを評価する傾きを私たちは持っています。これらを知ることで分け隔てが現れ、そして他の人と区別して人は偽りの安全さの中に入り込みます。その結果、人は自分の心に高いプライドを育て始めます。神の前では階級制は全くありません。お金持ちであろうと貧しい人であろうと、王であろうと奴隷であろうと、私たちは皆、神の憐れみと赦しを必要とする子供たちです。神は人々を区別し、分け隔てなさらないこと(参照:使徒10,34)を弟子たちに理解させるために、イエスは子どもを模範として示しました。

 心の中に神への尊敬を持たない人は誰であろうと、人が神の似姿であることを忘れて、人々の姿を見て彼らを批判し裁くでしょう。この裁きは正しくないだけではなく、必ず、いつか、とんでもない結果を引き寄せるでしょう。事実、大祭司や律法学者、ファリサイ派の人々からご自分の態度と生き方について批判されたイエスは、死刑の宣告を受けました。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」とイエスは弟子たちに打ち明けました。イエスがはっきりと自分の死について語りましたが、あろうことか弟子たちは誰が一番偉いかについて議論する方を好みました。そこで、知恵をもってイエスは弟子たちの間に新しい階級を設立します。この階級では最も小さいものは一番偉い人であり、最も貧しいものは一番んでいる人であり、最後の人は最初の人なのです。イエスご自身がこの階級の一番下のレベルにずっと留まっています(参照:フィリピ 2,5-8)。イエスはご自分を見つけたい人をこの場所に連れていきます。この場所、つまりイエスのたとえ話の徴税人の場所に(参照:ルカ:18,9-14)留まることによって、私たちの祈りは神に願ったことを受けるのです。

 祈りが良い祈りであるためには、神への信頼、そして謙遜と人々に示す愛徳によって支えなければなりません。祈りの目的は、決して自分の良い立場を目指して神の保護を引き寄せ、自分の利益を満たすのではありません。祈りは無償の愛の行いであり、また感謝と賛美の飛躍として私たちを神の慈しみ深い心に近い者とします。

 末席に座り、皆の僕として、謙遜な心を持つ人は詩編の言葉を借りて、恐れずに次の言葉を神に叫ぶでしょう。「神よ、速やかにわたしを救い出し、主よ、わたしを助けてください・・・神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください」(参照:詩編70,2、6)。私たちもこの叫びを全人類のための願いにすれば、この祈りはとても良い祈りとなるに違いありません。アーメン。


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      年間第26主日  B 年  2021926日   グイノ・ジェラール神父

         民数記 11,25-29  ヤコブ 5,1-6  マルコ 9,38-434547-48

 私たちは、簡単に他の人々と自分の間に違いを見つけて比較する傾きを持っています。「私は洗礼を受けた、あの人はまだ受けていない」と言いがちです。ヨハネはイエスの弟子でない人が、自分を真似て、悪霊を追い出すことについて苦情と不満を言い出しました。ヨシュアはモーセに預言をし始めた二人の人を黙らせるように願いました。

 嫉妬や疑い、恐れは必ず人々の間に乗り越えられない壁を作ります。私たちは出来るだけすべてをコントロールしたいのですが、人生は全く予知できないものです。霊性においても同様です。

 神ご自身は私たちを惑わせることが大好きです。たとえば、紀元1世紀のユダヤ教の社会では女性たちの証しは全く値打ちがなかったにもかかわらず、復活したイエスが最初に現れたのは弟子たちの前ではなく、恐れていた数人の婦人たちの前でした。ローマの百人隊長のコルネリウスの家を訪れたペトロは、この異邦人は洗礼を受けていないのに既に聖霊の賜物で満たされていることを見て、非常にびっくりしました(参照:使徒10, 45-46)。保守的な考えを持ち迫害者であったパウロは、回心してからイエスの弟子たちの体験の助言を受けずに福音宣教の働きの主な土台を作り上げました。それによって、異邦人たちも信仰に入ることができました。神何をするべきか、何をしてはいけないかというようなことを決めるのは、私たちの務めではありません。しかし、神がなさることを素直に謙遜に受け止めることは、私たちの義務です。

 世界の至る所の神を信じない大勢の人は、福音の精神をもって、時々キリスト者たちよりも世の救いのためによく働いています。神は自由にさまざまな人を通して救いの業を行っていることを発見して喜びましょう。このことを理解するために、正しい選びをするようにイエスは私たちを誘います。「あなたの手、足、目がつまずかせるなら…切り捨ててしまいなさい」と。イエスが必要な切り離しと切り捨てを要求するのは、私たちの人生を切断し狭めるためではなく、むしろもっと豊かな実を結ばせるためです。

 私たちの手、足、目、心は何のために役立つのでしょうか。ヤコブの手紙が咎めているように、支配するために物を集め、横領し、所有するために使っていないでしょうか。私たちの手、足、目、心、貧しい人を助け、信頼を生み出し、尊敬を表し、祈りに誘い、感謝に導くために使っているでしょうか。2バチカン公会議は、そのことを上手に教えています。「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」(参照:現代世界憲章No1)と。

 すべての人に対して慈しみの心を示して、出会う人々の苦しみ、喜び、希望や恵まれた才能を分かち合うように学び続けたいと思います。嫉妬心から批判をせずに、私たちと共に、また世の救いのために神と聖霊が実現する美しく偉大で不思議な業を喜びの心で受け入れ感嘆して発見することを学びましょう。アーメン。

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     年間第27主日  B年  2021103日   グイノ・ジェラール神父

            創世記 2,18-24  ヘブライ 2,9-11  マルコ 10,2-16

 モーセの十戒の中に次のことが書かれています「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛ロバなど隣人のものを一切欲してはならない」(参照 :出エジプト20.17)と。このように妻は家、牛、ロバと同じレベルに置かれて、主人のものであり、小さなチャンスがあれば召使のレベル位に置かれるかも知れません。しかし当時は、女性は議論の余地なく夫の持ちであり従属物でした。召使は自分の主人にことわることができないのと同じように、ファリサイ派の人の妻は離婚する権利がありません。たとえ夫の態度が横暴で不正に満ちたひどいものであっても、夫は妻に対するすべての権利を持つ唯一の人でした。

 「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」とイエスははっきりと断言します。そう言ってイエスは男性にも女性にも同じ有罪を言い渡します。同時にイエスは女性たちの人間としての正しい立場を取り戻します。世界中の誰も家、牛、ロバなどの動物が有罪であるとは言えません。自由と識別と責任を持つ人間だけが有罪とされることがあります。男性にも女性にも同じ有罪を言い渡すことで、イエスは法律の前で彼らを平等な人間としてめます。男性はもはや女性を支配する者ではなく、自分たちと組む相手であり、女性はもはや男性の所有物ではなく、夫の奴隷でもありません。

 ファリサイ派の人々の質問に直面してイエスは弱い女性たちの側に立ちました。また当時の男性の間での決まりに対しても、イエスは子供たちを守り彼らへの尊敬を要求します。当時の考えでは、女性や子どもたちは未完成で律法を守れないものとされていました。男性の世界に女性や子どもたちの場所がないからです。そこでイエスは強く怒るだけではなく、子供たちを模範として示しました。

人間の頑固な心について話すイエスは正しいでした。それが私たちの幸せのために神が望む一致を妨げるからです。今日の福音の個所は特にイエスが公にはっきりとモーセの律法と断絶したことを現しています。そこでイエスはゆっくり神の愛の計画を説明します。男と女は違ったように創造されましたが、彼らは相互に認め合い、お互いに相手を破壊するためではなく完成されるために一致しなければなりません。離婚は神の計画に逆らっています。なぜなら、二人の愛がずっと続くように神は望んでいて、神の愛は永遠だからです。

キリストは「離婚してもういい」とか「離婚するな」とか言いませんでした。ただ、「離婚して、再婚するな」とはっきり言断言しました。失われたものを救うためにイエスは来られました(参照:ルカ19,10)。もし万が一離婚して再婚したキリスト者たちがこれまで以上に愛について考え、もっと多くの犠牲を受けとめ、一層熱心に祈って子供たちにキリスト教的な教育を与え、教会の生活に積極的に参加するのであれば教会の法律に逆らっていても、彼らは神の慈しみと助けを受けるでしょう。

 人は誰であろうと離婚した人々を批判して、裁くことはできません。多くの場合、心の中の思いと見た目とは異なります。大切ことは、結婚の状態を続けることか、離婚することかではなく、イエス・キリストの精神と教え導きに従って生きていきたいかと言うことです。これこそ重大な問題です。なぜなら、私たちはキリストから離れると何もできないからです(参照:ヨハネ5,5)。アーメン。

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     年間第28主日  B年  20211010日  グイノ・ジェラール神父

           知恵の書 7,7-11  ヘブライ 4,12-13   マルコ 10,17-30

 永遠の命を受ける方法を知るために、ある人がイエスの方へ走り寄ったことを今日の福音は述べています。ところで皆さんに打ち明けますが、私が司祭になってから残念なことに私は今までにこの話と同じことを願うために走り寄って来た人を一度も見ませんでした。更に、霊的な指導に飢えて養成を要求するキリスト者と司祭たちが出会ったのは自分の手の指に数えられる程度しかないでしょう。

 福音書に出てくる人は、いつか両親から貰うはずの遺産よりも他の遺産を捜し求めていました。彼は「永遠の命の遺産」を望んでいます。聖書の中で見つけ出し難いこの言い方は、きっとこの人がそれをよく使っていたイエスの口から直接に聞いたに違いありません(参照:マタイ25,34)。神の掟を思い起こさせてから、イエスはこの人に愛の眼差しを注ぎながら、貧しい人々に自分の持ち物を全部施すことによって、天に宝物を積むように勧めます。「永遠の遺産」はこの人が自分の持ち物のすべてを与えることによって自分で作らなければなりません。喜ばしい答えを受けるために走り寄って来たこの人は大きなショックを受けて、何も言えずに悲しくなり絶望してゆっくり立ち去りました。頼まれた犠牲を直ぐに行えない人に対して、イエスご自身も寂しくなりました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と。

 イエスは決して持っている富についてこの人を責めることはありませんでした。ただイエスはこの人を自由にし、彼の人生の地平を広げる知恵を与えようとしただけです。なぜなら、永遠の命は神の言葉に導かれて進むべき道ですから。神の言葉は「力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く」私たちを自由にします。それは私たちが神の摂理に自分自身を委ねながら信頼の道を歩めるようにするためです。

 知恵は私たちが謙遜に願う神の賜物です。「わたしは祈った。すると悟りが与えられ、願うと、知恵の霊が訪れた」と第一の朗読が教えています。神の言葉も知恵も、聞く人の心に働き、余分なものを切り落とし、分離し、整理します。ちょうど天地創造の時と同じように、み言葉も知恵も私たちの内面の混沌状態を正しく切り分け整理します。

 私たちは深く考えていないかも知れませんが、聖書による知恵は「私たちに対する神の業を理解させる」貴重な賜物です。永遠の命も神の無償の賜物です。問題は、自分が富んでいるか、乏しい人かを知ることではなく、何を自分の人生の土台とするのかを知ることです。それは自分自身なのか、持ち物なのか、持っている確信か、それとも神なのか。

 与えることによって人が受けるという事実をイエスは今日私たちに理解させたいのです。永遠の命は神の無償の賜物です。自分の力によってそれを得ることはできません。「事実、あなたがたは、恵みによって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(参照:エフェソ2,8-9)と聖パウロは思い起こさせます。真の幸せは、私たちが所有する物事の内にあるのではなく、むしろ私たちが与えるものの中にあるのです。そして神はそれを百倍にして私たちに返して下さいます。アーメン。
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          年間第29主日  B年 20211017    グイノ・ジェラール神父

             イザヤ 53,10-11      ヘブライ 4,14-16    マルコ 10,35-45

 「苦しんでいる僕」の姿を通して預言者イザヤは「神の僕」であるイエスの特徴を上手に描きました。また、ヘブライ人への手紙はイエスが大祭司の役割を実現して、ご自分の苦しみと死によって私たち命の門に入らたことをはっきりと教えています。

 エルサレムに入る前に、イエスは三回繰り返して、弟子たちにご自分の差し迫った受難と死を知らせました。その話をするたびに説明明確に、より詳しく話しましたが、この啓示は弟子たちの理解をられませんでした。最初はペトロがイエスに反対の事を言ったので「サタン」という名で追い払われました(参照:マルコ8,31-33)。二回目は、イエスの話を聞いたのち、弟子たちは「だれがいちばん偉いかと議論し合っていました」(参照:マルコ9,34)。事実彼らはキリストの死後誰が彼の後を継ぐかを議論していました。

 三回目は、ヤコブとヨハネがイエスの後継者として認められるように要求します。イエスの右と左に座ることを願うことによって、彼らは他の弟子たち、特にペトロを押しのけるつもりでした。そういう訳でイエスは強く苛立ちます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。私のそばに座ることができるには、まず苦しみと十字架の死の試練を受けなければなりません」と。ヤコブとヨハネが引き受けよとした席は、数日後にイエスと共に十字架につけられる二人の強盗に与えられるでしょう。「一人は右にもう一人は左に」(参照:マルコ15,27)と。イエスはご自分の弟子たちが一緒に十字架まで歩くように招きますが、彼らは座りたいのです。座るというのは人々を支配し、裁くことあるいは自分が偉くなることです。

 ですから、待たずにイエスは次の大切な教えを彼らに与えます。世界中の支配者たちは人々を支配し、権力を振るって彼らの自由を奪っていますが決して人間の発展を支える助けではありません。ただ命を捨てることのできる奉仕が全人類を支え助けるとイエスは教えています。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とはっきり言ったイエスは、今度こそ弟子たちにも分かるでしょうと望んだに違いありません。

  命を与えることは「誰のために、大切な目的のために死ぬこと」よりも、「誰のために、正しい目的のために生きること」です。奉仕することによって命を与えることは、自分が持っている身体的、精神的、霊的な可能性を尽くしながら愛に生きることです。また、奉仕することによって命を与えることは、隣人に奉仕する愛の力を命ある限りすことです。これについてカルカッタのマザー・テレサの模範は代表的といえます。

 私たちはみな、支配欲と権力欲の誘惑を受けています。夫を支配する妻、両親の勧めを捨てて自由勝手に行動する子ども、人々の意見を聞かず何でも自分だけで決める司祭などを含めて、たびたび人は奉仕の名によって公にあるいは見せかけの偽善に陥っています。

 絶えず他人に対する奉仕によって生きることこそキリスト者の使命です。これはまた第二の朗読が教えている通り、司祭職でもあります。愛することや奉仕することも苦しみと自己犠牲を引き寄せると預言者イザヤは思い起こさせました。ですから、ますますイエス・キリストと一致することを聖霊に願いましょう。なぜなら、ただイエスだけが私たちを愛の完成にまで導くことができるからです。アーメン。

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          年間第30主日  B年  20211024   グイノ・ジェラール神父

             エレミヤ 31,7-9     ヘブライ 5,1-6    マルコ 10,46-52

 神は私たちのためにつまずくことのない命の道を整えると預言者エレミヤは教えています。目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も、弱い人も強い人も皆、安全にこの命の道を進むことができ、この道を通して神は全ての人を救うからです。

見えない人の目を開き、口の回らない人を話させ、耳の聞こえない人を聞かせ、体の不自由な人を歩かせ、罪びとを赦し回心させるイエスこそがこの命の道です。イエスは全ての人を立ち上がらせ、また、彼ら信頼と喜びと平和を取り戻すために差し出しされている救いの手です。イエスを信じる人が、自分の心の底から湧き出てくる希望に溢れる祈りをこらえることができません。目の見えないバルティマイはそれをよく理解しました。彼は一所懸命に叫びました「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。たとえ周りの人々に迷惑をかけてもイエスに自分の信仰を叫ぶことはとても大切です。群衆の咎めを受けても、バルティマイはますます叫び続けました。彼の頑固さは、望んでいた癒しの恵みと同時にすぐにキリストの弟子となる喜びを引き寄せました。

 信仰の叫びはいつもイエスを立ち止まらせます。「何をして欲しいのか」とイエスは尋ねます。先週の日曜日に、イエスはこの同じ質問を偉くなりたいヤコブとヨハネに聞きましたが、彼らは自分の信仰を現わさずに、ただ自分の野望を聞かせました。バルティマイは、信仰を持ってはっきり見える揺るぎない希望を現しました。そういう訳で、イエスはバルティマイが望んでいた以上に彼の願いを叶えました。バルティマイははっきり見えるようになっただけではなく、イエスに従って、福音宣教の道を歩む恵みも受けました。信仰を持って助けを願う人のそばにイエスは必ず留まり、救いをもたらすのです。そして願ったこと以上にイエスはもっと多く与えるのです。

 信じることは 自分を辱める罪びとのことや目の見えない状態を忘れることであり、また私たちを取り囲む周りの人たちから何を言われるかという恐怖の上着を脱ぎ捨てることです。ちょうどバルティマイが早く自由にイエスのそばに行くために自分の上着を脱ぎ捨てたように。信じることは自分の偏見を捨て、希望する術もないときに、なおも望みを抱き、(参照:ローマ4,18)人間が全くできないことを神は簡単にできることを強く期待することです。信仰は、とても小さいものであっても大きな山を動かす(参照:マタイ17,20)とイエスは教えました。

 心の底から湧き出た祈りは決して失われることがありません。神は私たちから試練を遠ざけませんが、襲って来る試練を乗り越える力と忍耐を豊かに与えます。試練と不幸の真っただ中に置かれて、神に向って信仰を叫ぶ人の直ぐ傍にイエスは留まります。ヘブライ人への手紙が思い起こさせるように、イエスも様々な試練を受けました。苦しみのうちに死んで復活されたイエスは、大祭司として父なる神の前で絶えず私たちのために執り成しています。それを固く信じて、恐れずにイエスに従いましょう。イエスこそが命、理、道であり(参照:ヨハネ14,6)、私たちの救い(参照:使徒 4,12) と永遠の喜びですから。アーメン。

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      年間第31主日  B年  20211031日   グイノ・ジェラール神父

       申命記6, 2-6   ヘブライ7, 23-28  マルコ12, 28-34

  聖マルコは、エルサレム入城とキリストの受難の間に律法学者とイエスの出会いを置きました。いつものように、ファリサイ派、律法学者とサドカイ派の人々に囲まれて、イエスは神殿の境内のソロモンの回廊で教えています。死者の復活についてイエスがサドカイ派の人々に与えた賢明な説明を聞いて、感嘆したある律法学者はイエスに尋ねます。彼の質問は申命記の最も大切な箇所についてです。イエスの口から祈りの形で答えが湧き出ました。

 神への愛の掟は昔からイスラエルの民の祈りです。モーセの時代から忠実なイスラエル人は毎日、朝と夜この祈りを唱えます。羊皮紙に書かれた祈りの言葉は「テファリン」と言われる小さな立方体の箱に入れて、人の左腕(心臓に関連する場所)と額(精神に関連する場所)に取り付けています。またこの祈りはイスラエル人の家の玄関の「メズーザー」に取り付けられて、入る時と出る時に「メズーザー」を手で触れながらユダヤ人は祈りの言葉を唱えます(参照:申命記64-9)。

 この祈りを唱えながら、イエスは隣人愛の掟の言葉を加えることでこの祈りを新たにします。二つの掟は一つになり、もう分離できないものとなりました。「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です」(1ヨハネ420)と聖ヨハネは書きました。



  イエスの答えを受けた律法学者はとても喜びました。彼はこの答えを繰り返し、そして「この二つの掟はどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている」と明確にします。そこで、イエスも感嘆して、律法学者をほめたたえ「あなたは、神の国から遠くない」と断言しました。この律法学者の対話の数日後、イエスは愛を尽くして自分の命を捧げるでしょう。第2朗読が教えている通り、イエスは大祭司であると同時にいけにえでもあります。神への愛と全人類への愛を尽くして、いけにえとしてイエスは自分の命を与えます。言い換えれば、十字架上でのキリストの死は、イエスと律法学者が宣言した愛の二つの掟を実現しました。

  私たちにとって、この二つの掟の実践は神の言葉を聞くことによって行われます。「イスラエルよ、聞け」。聞くことによって、私たちは神と自分を囲んでいる人々と繋がります。「聞く」という言葉は、聖書の中で700回繰り返されています。神の言葉は私たち一人ひとりに個人的に委ねられています。神の安全を保障する言葉は私たちの歩みの光であり、私たちの前に真の幸せに導く道を開きます。また神の言葉は、隣人へ私たちを遣わします。

 心に神の言葉を受け止めるために、若いサムエルが主にいった言葉を自分の心で繰り返すことがとても役に立ちます。それは「主よ、どうぞお話しください。僕は聞いております」(1サムエル310)。イエスが私たちを愛したように愛するために、この単純な祈りが人の心の中に必要なものを豊かに与えます。ですから神のみ言葉と無限の愛がますます私たちをイエスと一致させるように、そして互いを互いに、私たちもイエスが私たちを愛したように愛するために、聖霊の助けを願いましょう。アーメン。

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          年間第32主日  B 年 2021117日   グイノ・ジェラール神父

                1列王17,10-14     ヘブライ9,24-28    マルコ12,38-44

  預言者エリヤをもてなしたやもめも福音の中の貧しいやめも自分が生きるために持っているものすべてを与えました。サレプタのやもめは水一杯ほんの少しの小麦粉と油を与え、福音のやもめはただレプトン銅貨二枚を与えました。一方、エルサレムの律法学者たちは贅沢な生活を送り、孔雀が歩くように気取って歩き、やもめのものを奪い、そして祈るふりをしています。彼らの自惚れと偽善が厳しい罰を受けるとイエスは忠告しました。

 乏しさの中にいる二人のやもめは支援する者がなく、財源もな、すべてが欠けています。エリヤを歓迎するやもめは空っぽの壷の油と少しの小麦粉によく似ています。彼女は、希望を失い、疲れ果て、死ぬのを待つばかりだと思い込んでいました。しかし訪れた人にもてなしを果たす義務は彼女の死ぬ決意よりも強いものでした。福音のやもめにとっては、生き残るよりも神に対する自分の宗教的義務を果たすほうがとても大事でした。言い換えれば、この二人のやもめは自分の命を危険にさらし、それを神の手と神の預言者の手に委ねました。

 第一朗読で、神に揺るぎない信頼を命がけであらわす人を、神どんなに丁寧に、また長くその人の世話をするかを述べています。「命を失う者は、それを救う」(参照:マルコ 8, 35)とイエスは弟子たちに教えました。さらに、律法学者たちと自惚れた偽善者のために「全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(参照:マルコ836)と加えました。

 イスラエルの人々が神が与えた律法を守り実行するように、律法学者は皆の指導をしていました。しかし、神が律法を無償で与えたから、彼らは教えや指導の仕事から給料を貰うことは厳しく禁止されていました。この掟を上手く逃れて、律法学者たちはお世辞や名誉と共に寄付や捧げ物を受けていました。自分たちは尊敬されるべき者だと思い込んで律法学者たちは自分たちの威厳のしるしを見せびらかしました。彼らにとっては、祝いや宴会や食事に誘われるのは当然でした。神の言葉と教えを皆にただで教えているので 特別な尊敬を受けるのは当たり前だと律法学者は考えました。結局、み言葉と律法を無償で与えた神に栄光と賛美を返すよりも彼らはその栄光を自分たちに引き寄せました。

 イエスにとっては、律法学者とエルサレムの神殿は等しいものでした。もちろん神殿は立派でとても魅力でした。しかし律法学者と祭司長たちの豊かさと神殿の境内で行われた不正な商売が神の聖性を汚し、傷付けながらそれを隠していたので神殿の滅びは避けがたいものになりました。神に返すべき栄光を奪い、人々を騙している律法学者たちはイエスにとっては泥棒でした。ですから、彼らが神殿を「強盗の巣にしてしまいました」(参照:マルコ11,17)と言ったのです。

 今日の二人のやもめのように、神は貧しいお方です。神は全てを与えるので何も持っていません。しかし、大切なことは、神は愛で満ちていると言うことです。愛に満ちることと、貧しくなることは神にとって同じことです。そして、私たちにとってそれは命の泉になるのです。試練の時、飢饉、雨が降らない大干ばつの時期にも神の愛の壷は絶対に空っぽになりません。聖霊の油もイエスの命のパンもいつも私たちに与えられています。確かに、聖パウロが教えるように「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(参照:2コリント8,9)。アーメン。

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         間第33主日  B年  20211114日  グイノ・ジェラール神父

 
         ダニエル12,1-3    ヘブライ 10,11-1418    マルコ 13,24-32

  昨今では世の終わりを信じることはとても簡単です。最近は自然による災害がますます記録を更新しています。特に新型コロナウィルスは家族や社会的、経済的人生のあらゆる場面で世界の歩みを妨げています。また、一方の国々では降雨量が例年を下回ることに苦しみ、他方の国は北極・南極の氷の氷解のために海面が上昇し困っています。

  しかし、イエスが預言している世の終わりの忠告は、脅しなのか、希望のメッセージなのか解りませんが、どちらでも同じことが起こります。確かにイエスは神のいつくしみを宣言し、救いの計画を実現するためにこの世に来られました。キリストが栄光のうちに到来するのは、決して大混乱をもたらすためではなく、むしろ、神の支配が創造された宇宙万物に及ぶようにすべてを立て直し、整頓するためです。イエスは良い知らせを伝えます。新たにされたすべてを一致させ、悪のあらゆる形が永遠に消え失せます。

  マタイ、マルコ、ルカは自分の福音で世の終わりについて書いた時に、全く関係のない、違った出来事を混ぜてしまいました。そう言う理由で、彼らが述べていることはとても分かり難いのです。彼らが書いた世の終わりの出来事は、先ず、飢饉、迫害、戦争に満ちていた初代教会のキリスト者たちの日常生活でした。また、エルサレムの町と神殿の破壊は栄光のうちにキリストが到来する知らせとして信じられていたことです。ペトロも(参照:2ペトロ3,3-9)、パウロも(参照:2テサロニケ2,1-3)、すぐにそれを信じました。しかし彼らは後で考え直しました。世の終わりにいての記述で解り難いもう一つの原因は、キリスト自身が世の終わりについて打ち明けたことをこのふたつの出来事に付け加えたからです。ですから当然、このまとめは、私たちの理解を混乱させます。

 イエスははっきり言いましたその日、その時は、だれも知らないから目を覚ましていなさいはっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びないと。言い換えれば、私たちの生きている時代も、私たちの人生も終わりがあります。世の終わりは、先ず私たちの死の日です。私たちは神が選んだ人々を集める永遠の内に入るために、死の日に地上のすべてが止まります。私たちの終わりは近いので目を覚ましていることが大切です。

必ず終わろうとしているこの世の大混乱の出来事の真っただ中にいる私たちが、強く耐え忍び、立つことができるようにイエスは次のように言っています。「恐れることはない、心配しないで、安心していなさい」、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(参照:ヨハネ16,33)と。私たちが希望を持つように、イエスはわざと春の生命力に満ちているいちじくの木について語りました。イエスは偉大な希望であふれる新しい生き方を告げ知らせました。

  キリストは必ず栄光のうちに戻って来られますが、それはいつか誰にも分かりません。しかし、私たちはそれを信じ、そしてミサの時に三回繰り返して宣言します。先ず、私たちは信仰宣言で「イエスは生者と死者を裁くために来られます」と言い、次に聖変化のすぐ後に「復活をたたえよ、主が来られるまで」と言います。そして三回目は主の祈りの後「私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」と唱えます


この信仰の叫びが 希望のうちに私たちを守り、目覚めさせ、そして試練の真っただ中耐え忍ぶ力になりますように。アーメン。

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      王であるキリスト B年   202111月21日  グイノ・ジェラル神父

      ダニエル 7,13-14     黙示録 1,5-8     ヨハネ 18,33-37

  王であるキリストのお祝い日が、1925年に教皇ピオ11世により定められました。この時代は、共産党と全体主義的な体制がますます強くなっていたので、それらに反対するために教皇は唯一の解毒剤としてキリストの王権を提案しました。

  イエスは宇宙万物の王です。イエスは、はっきりとそれを総督ピラトに言いました。 この告白はイエスに有罪の判決をくだしたかったイエスの敵たちを喜ばせました。「王と自称する者は皆、皇帝に背いています」(参照 :ヨハネ19,12)と彼らは訴えました。だが、イエスはピラトが誤解しないように、すぐ次の言葉を加えました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と。残念なことにピラトはイエスの説明を理解できませんでした。彼はイエスを「ユダヤ人の王」として有罪の判決を下し、それをヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書いて、十字架につけました(参照:ヨハネ9,19)。ローマの兵隊たちもイエスを嘲弄(ちょうろう)して、茨の冠を頭に載せ、ローマ皇帝の権威を現す赤い外套を着せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱しました(参照:マタイ27,28-29)


  確かにイエスは王であり、彼の統治は愛、慈しみ、真理、正義、平和、赦しと命の支配です。イエスは暴力をふるわず、柔和を示し、決して支配しません。イエスの王国は私たちの心にあるのです。また王国の事実のしるしは、その王国がもたらす喜びと自由の中にあります。20世紀の独裁者、スターリンやヒトラー、毛沢東や金日成、ポル・ポトなどすべての独裁者たちは暴力、憎しみ、飢饉、貧窮、偽証と嫉妬、差別を利用して何百万人も死に導きました。これらの独裁者たちとは反対にイエスは一人ひとりの世話をしながら終わりのない命、永遠の命に導きます。

 宇宙万物の王であるイエスは、私たちを強制収容所に閉じ込めることはしません。イエスはご自分の玉座に座らせます(参照:ヨハネの黙示録3, 21)。私たちを自由にする信仰の力によって(参照:ヨハネ8, 31-32)、イエスは私たちを「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(参照:1ペトロ2,9-10)とします。キリストの王国は建国されていて、自由であり、幸せで満たされ、神と完全に一致した聖なる者の王国です。

  弟子たちにイエスは自分の王権について説明しました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(参照:マルコ10,42-44)と。また、弟子たちの足を洗った直ぐ後に、イエスはもう一度同じように教えました。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(参照:ヨハネ13,12-15)と。

  アルファとオメガであり、最初と最後であるイエスのうちにこの世の歴史のすべてが集められています。今朝、聞いた預言者ダニエルの証しとヨハネの黙示録、そして福音の話もほんの少しだけイエスの事実を啓示しました。イエスは王でありますが彼の国は、この世には属していません。しかし、イエスは自分の王権を毎日私たちの人生に行っています。王としてイエスが行ったことと、彼が言ったことを絶えず再発見するように私たちを誘います。これを実現するなら私たちの心にあるイエスの国の神秘を発見できるでしょう。なぜなら「神の国は私たちの間にある」(参照:ルカ17,21)からです。アーメン。


                         

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